アマデウス感想
松本幸四郎主演
ストーリーの感想、自分なりの解釈など。
極力ヲタ目線無しバージョンで。
ヲタ全開なのは全公演終わった後に。
役者さん方への感想も。
きっと気持ちが溢れ出るだろうから(笑)
桐山君が舞台出演、演目はアマデウスと聞いた時、アマデウスってあのアマデウス?
とまず思った。
私は学生の時に見た映画アマデウスが凄く好きだった。
失礼ながら幸四郎さんがアマデウスをライフワークにしているのは存じ上げなかった。
ラ・マンチャの事は知っていたから、歌舞伎、ミュージカルの他にまだライフワークあるの?
っていう驚きがあった。
実際舞台を見てみて、75歳にしてあの迫力、あの気迫があるなら、働き盛りと言われてる35~45歳はエネルギー余りまくってただろうから3本目のライフワークにも納得だなと思った。
幸四郎さんマジで偉人。
全体的な雰囲気は重厚で上品。
だけど、その中でモーツァルトの軽快さやサリエーリのお茶目さコンスタンツェの愛らしさ、監督、皇帝、侍従長、長官たち4人のキャラの濃さが重すぎず、こじんまりもせず自由な空気とエネルギーで会場を包みこみ、特別な空間を作り出していた。
あの空気感のバランスの良さはどうやったら生み出されるんだろうと考えずにはいられない程の心地よさ。
兎に角、転換ごとに空気を変えるのが上手い!
桐山君は自身のブログで、風の二人の表情や声色でシーンの全てがわかり、サーヴァントの薄暗闇での優雅な働きで場面が変わると書いていた(文章は全然違うけど)
本当にそうだなと思う。
キャラを与えられた人々はキャラを演じることで舞台を作るけれどこの方々は舞台そのものを演じてるんだろうなと思った。
さて、ストーリー。
初見の印象としては映画が好きだったからラストシーンが違っていて残念だった。
映画ではサリエーリはモーツァルトにレクイエムを書かせることで実際に精神的に追い詰めたし、追い詰めたくせに最後までモーツァルトにいい顔してたし、そのくせモーツァルトの代筆を通して才能を見せつけられサリエーリは更なる絶望へと導かれる印象だった。
まさにサリエーリの嫉妬が主軸に置かれたストーリーだった。
幸四郎演出の舞台の方は違う。
違うからサリエーリという人物がより複雑かつより人間的に感じられた。
私はサリエーリはモーツァルトのことが大好きだったんだと思っている。
可愛さ余って憎さ100倍ってよく言うけれど、憎さ余って可愛さ100倍!って感じ。
嫉妬、羨望、憧れ。
こうなりたいと思う人物が身近にいる。
誰もが経験あると思う。
そういう人物に出会ってしまったら、相手を認めず遠巻きに見て一方的に嫌うか、
自分の手中に納めたいと思うかどちらかだと思う。
誰かを手中に納めたいというのは独占欲でそれが親友という形なのか恋人という形なのかは別として、性別は問わない欲望だと思う。
サリエーリは自分は前者だと思っている後者だと思う。
自分のプライドでモーツァルトが好きだと言う気持ちに気付かないふりをしていただけだし、もしかしたら本当に最後まで全身全霊でモーツァルトを愛していたことに自分自身は気付いてなかったのかもしれない。
初見の時に、こんなに愛せる人が居てサリエーリは幸せだなあと思ったし、モーツァルトは周りの人間がどんどん離れて行く中でサリエーリには受け入れられてる自信があったんだろうなと思った。
幸四郎さんがおっしゃっていた『アマデウスは単純な嫉妬の物語ではない』というのはこういうことかなと思った。
一方モーツァルトは傍若無人で自信満々に見えて、愛情に飢えた人間不信なところがある人物。
自分の才能を自覚していて、才能に依存し、だけれども才能しか認められないことに不安を感じ、その不安を見ないふりをしようとすることが幼児性に繋がっている。
そんな負のスパイラルを持った人物に見えた。
モーツァルトはサリエーリには他の人に比べたら心を許していたように思う。
サリエーリと出会った日から
『あんたってなんかいい人だな。サリエーリさん』
って思ったままなんだと思う。
作曲家としては勝っている自信はあったんだろうけれど、男として権力を持つサリエーリを認めていたと思う。
だから皇帝を怒らせたかもと思った時や渾身のオペラ『フィガロの結婚』が受けなかった時もサリエーリに意見を求めたし、
コンスタンツェがサリエーリに惚れてしまわないように『イタ公は芝居が上手いから気を付けろ』と牽制したりもした。
でも、サリエーリからの嫉妬の気持ちも感じていたのか心を許しきることはなかった。
サリエーリがモーツァルトが考える作曲家の使命について感動し握手を求めた時も
父親が死に、サリエーリが『これからは自分を頼れ』と手を広げて待っていた時も
皇帝から宮廷で安く雇われた時も『新しい友よ』と手を広げて待った時も
モーツァルトはその手を取ることもその手の中に飛びこむこともなかった。
そしてラストシーン。
果たしてモーツァルトは本当に幼児退行してしまったんだろうか。
コンスタンツェも居なくなりサリエーリにも裏切られたことがショックで幼児退行。
確かにそれはある。
初めて見た時にはサリエーリに抱きしめられてもモーツァルトは『キスの歌』を歌い続けていた。
それは精神が壊れた人に思えた。
でも、次に見た時はサリエーリに抱きしめられて歌うのをやめ、サリエーリの胸の中で泣くモーツァルトになっていた。
そのシーンを見た時にモーツァルトは完全には壊れていないのかなと思った。
『その手を広げてくれたらさ。その中に飛びこむから』
今まで手を広げて待ってくれたのに受け入れなかった後悔。
もう二人の関係は修復し難いけれど、せめて一度は受け入れたいと思ったんじゃないかと思った。
サリエーリときちんとハグがしたいと。
普通にしていたら無理かもしれないけど、誰もが受け入れてくれていた子供だった自分ならばサリエーリも素直に受け入れてくれるのではないか。
そんな風に思っているとも取れるなと思った。
これは深読みが過ぎるのかもしれないけれど…
二人は二人とも天才でプライドが高く、傷つくことを強く恐れる小心者だった。
だからすれ違い、もうどうしようもなくなってからしかお互いを受け入れられなかった。
サリエーリはモーツァルトが死んでもなお人々の伝聞の中で共に生きたいと望んでいた。
その願いはかなわなかった。
愛し方が不器用だった人の哀れな結末。
これを神からの罰だと見ることも出来る。
でもサリエーリってあまり悪いことしてないよね。とも思う。
もしモーツァルトがサリエーリを受け入れていたらサリエーリはモーツァルトを素直に支援出来たかもしれない。
お互い様。
結局は人間関係大切にしなきゃ幸せになれないよって話かなと思う。
皆色々な後悔の中で生きている。
それをサリエーリは同じ立場のものとして許してくれる。
未来の亡霊である私にこんなに素晴らしい舞台を見せてくれてありがとう神様。
アーメン